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2012年12月22日土曜日

Night Games / Graham Bonnet 歌詞の考察~孤独なナイトゲーム

グラハム・ボネットの「Night Games」です。Rainbowを去った後のソロ活動中、1981年に発表した曲だそうで、wikipediaによると、この曲は西城秀樹によってカバーされているようです。





Night Games
ナイトゲーム
See the man in the busy street.
He's almost incomplete
He takes his pleasures in strange ways 
雑踏の通りを行くあの男を見ろ
彼はほとんど出来損ないで
変わった手段で悦びを得る 
And the lady in the library
She's just like you and me
You wouldn't know her at all 
そして、図書館にいる女性
彼女はまるであなたやわたしのようだが、
あなたは彼女の事を全く理解していないだろう 
She takes a train up to the great big city
She knocks the door and steps right in
He's just a fool that some would like to pity
They worked it out in the house of sin 
彼女は巨大な街へと電車で向かい
ドアを叩いて中に入る
彼は同情するほどまさに愚かで
彼らは罪悪の家で行為を行う 
Night games
They pay for their night games
They were two numbers they don't use names
It says in the rules
It's strictly for the cools to play 
ナイトゲーム
彼らは彼らのナイトゲームに金を支払う
彼らは2つの数字で互いを呼び合い、名前を使わない
それがルールだと言う
クールな者同士が行為を楽しむための厳密な手段だと 
The Night games
They play for their night games
Always blame one last frame
Games of the night 
ナイトゲーム
彼らは彼らのナイトゲームに金を支払う
いつも最後には自分自身を責める
夜のゲーム 
Every room has a different scene
Everyone has a different dream
You can get it any way you choose 
全ての部屋には違ったシーンがあり、
全員が違った夢を持っていて
とにかく、あなたが選んだものをあなたは手に入れられる 
You can get anyone you need
Anyone in the price's agreed
And nothing left for you to lose 
あなたが必要とする人は誰でも
あなたが提示した金で納得した者は誰でも手に入る
あなたに失敗はない 
It's entertainment for the lost and lonely
And cabaret for those who dare 
それは敗者と孤独な者のためのエンターテインメントで
思い切った者達のためのキャバレー※1だ 
The last attainment of the one and only
It's got to be to get you there 
最後に達成すべき唯一の事は、
あなたがそこで“あなた”を手に入れることであるはずだ



注1:キャバレー=音楽ダンスなどのショー楽しめるレストラン通例夜営されるhttp://ejje.weblio.jp/content/cabaret


西城秀樹の「ナイトゲーム」




2012年12月18日火曜日

Too Young To Die, Too Drunk To Live / Alcatrazz 歌詞の考察~生きているには酔いすぎた

先日の「Jet To Jet」の翻訳の流れで「Too Young To Die, Too Drunk To Live」を翻訳してみました。



この曲はアルカトラズの曲の中で一番好きな曲です。そのタイトルの刹那さ、グラハムの情熱的な声、イングヴェイの美しいメロディラインと、本当に魂を揺さぶる曲です。

この曲の詩は以前からある程度理解していました。「Jet To Jet」より、ずっと分かりやすい詩だと思います。


Too Young To Die, Too Drunk To Live 
死ぬには若すぎる、生きているには酔いすぎた 

Chemical kids lost in the street
Looking for some kind of saviour
 
通りから姿を消した化学薬品(注:恐らく合成麻薬)で汚染された子供たちは
一種の救世主みたいなものを探している
Perverted mind lead them like sheep
Into the slaughter they have to face
"Too young to die, too drunk to live"  
倒錯した心は彼らをまるで羊のようにして虐殺へと導く
彼らはその事実と向き合わなければならない 
"死ぬには若すぎる、でも生きているには酔いすぎた" 
As they follow in the path of believers before them 
彼らの前を行く信者たちの後を辿っていくように 
Too young to die, but there won't be too long to live 
死んでしまうには若すぎる、でも生きていられる時間はそう長く残されてはいないだろう

Daddie's princess fixes her hair
Powders her nose from the inside
 
父親の愛娘は髪をとかしながら
麻薬を鼻から吸い込む 
Smokes in the car, drinks her last beer
Soon she'll be ready for one more day
 
車の中でタバコを吸い、最後のビールを飲み
まもなく彼女はもう一日生きるための準備をするだろう 
Head for the classroom and to hell
But the clock up on the wall
Hold the blind face of freedom
 
彼女は地獄のように退屈な教室へと向かう
でも、壁の上の時計は自由という名の盲目の顔を保ったままだ 
There's time to die
But she just needs more time to live
 
死ぬべき時は来た
でも、彼女はもっと生きる時間を必要としている

What's the time? Is that the time? Yeah!
それは何の時間だ? その時がきたのか?

Ten years from now
Look how they change
They're so mature and respected
 
10年たった後
どれほど彼らが変わったか見てごらん
彼らは成熟し、尊敬されている 
It makes them laugh
They were such fools
So unaware of the real live world
 
その変化は彼らを笑わせる
あの頃の彼らは本当にバカだった
彼らは現実世界の事など何も気づいていなかったんだ 
"Honey I'm home, fix me a drink
'cause it's been a long hard day and the boss drove me crazy
Watching the clock on the wall for the happy hour
"
「ハニー、帰ったよ。何か飲み物でも出してくれないか?
とても長くてハードな一日だったよ。上司のせいで僕は気が狂いそうだった
幸せな時間のことを考えて壁の時計ばかりみていたよ」
Watch out! Watch that man come go running out. Yeah!
気をつけろ! 駆け出してくるあの男を見ろ!


(歌詞はライブで歌っている歌詞にしました)


YouTubeにはいくつかのライブ映像がありますが、個人的に一番良いプレイは

「Live Sentence」
http://www.amazon.co.jp/Live-Sentence-Alcatrazz/dp/B005IUB4UW

です。

これがグラハムの歌とイングヴェイのギターの両方が一番良い演奏だと思います。


次はグラハム・ボネットの代表曲で「Night Games」を翻訳したいと思います。




2012年12月16日日曜日

Jet To Jet / Alcatrazz の歌詞の考察~そんなことがあなたの望みなら、あなたは死ぬ

アメリカのハードロックバンド(ヘヴィメタルでしょうか…)、Alcatrazzの1983年発表アルバム『NO PAROLE FROM ROCK 'N' ROLLl』(ロックンロールからは仮出所できない~邦題:アルカトラス)に収録された曲、「Jet To Jet」の歌詞について考察してみました。



AlcatrazzはRainbow(巨匠ギタリスト、リッチー・ブラックモアのバンド)でボーカルを務めたことのある情熱派シンガー、グラハム・ボネットのバンドで、このAlcatrazzのギタリストは、まだ若手だった頃のイングヴェイ・マルムスティーンです。(イングヴェイ・マルムスティーンはスウェーデン出身のギタリストで、超速のメロディアスな奏者であり、やはり巨匠ギタリストです)

わたしはイングヴェイ目当てでこのアルバムを買ったのですが、当時は、この「Jet To Jet」の歌詞の意味が全く分かりませんでした。(和訳はついていなかったと思います。知らぬ間にCDを紛失していて、確認できません)

その中の歌詞の一部を、

Call me master and I call you boy, I want need you the most

と聞いていて、「私のことを師と呼び、わたしは君を坊やと呼ぶ。わたしは君のことがとても必要だ」という意味だと思っていて、「リスペクトし合う、なんてすばらしい歌詞なんだ」と思っていたのですが、今日詳しく歌詞を調べてみたら、これは全くの聞き間違いだということがわかりました。

そもそも、「need you the most」は1番の歌詞で、「call me master~」は2番の歌詞であり、ごちゃ混ぜになっていたわけです。

以下が正しい歌詞です。

Jet To Jet

On a short trip we made a landing
Then we were strangers in town
How they stared as we made our exit
We're white they're all brown
Dr.Livingstone where are you
When we need you the most
We're white as ivory on the ivory coast 
Jet into jet 
Eat their poison like true ambassadors
We will drink up their beer
So predictable washed out white
Men foriegners are here
Call me master I'll call you boy
If that's all that you need
How that wounds me just leave me here to bleed 
Jet into jet 
Black mans burden is on his shoulder
And keeps him well in his place
Two hundred pounds worth of megawatts
That smack him in the face
There's no reason to take the weight
Life's not strapped to your head
Don't wear the token till the token black is dead 
Jet into jet


検索すると、いくつも和訳が見つかって、「ああなるほど、これはそういう意味なのか」と改めて理解しました。まず、そもそものタイトルである「Jet To Jet」ですが、やっとわかりました。「漆黒」のことを英語で、「jet black」というのですね。jetは、漆黒の~ という形容詞のようです。

「we are white, they are all brown」という歌詞があるので、白人と黒人を歌った歌だとは分かっていましたが、jetが漆黒を指していると知って、やっと何故このタイトルになったのかが分かりました。

さてところで、この検索でみつかった和訳ですが、どれもかなりおかしな訳ばかりでした。

例えばこの部分の訳

So predictable washed out white 
Men foriegners are here

http://www.fuwakumusic.com/A/Alcatrazz/Jet_To_Jet.htmlからの引用

ここじゃ白人の外国人は
色あせることが推測できるだろ

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1220104832からの引用

ここで白人は“色あせて”外国人になるのは確実だ

えーと、意味不明です。

それからこの部分

Black mans burden is on his shoulder 
And keeps him well in his place

http://www.fuwakumusic.com/A/Alcatrazz/Jet_To_Jet.htmlからの引用


黒人の重荷は彼の肩の上に
そして彼を満足につけあがらせないんだ


http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1220104832からの引用



黒人の男の責任が彼の肩に委ねられ
彼は街で快適に過ごす


えーと、意味不明です。






まず、

So predictable washed out white 
Men foriegners are here


ですが、これは正しく書くと恐らく、


So, (It is) predictable (that) washed out white men foreigners are here.

という文章です。

predictableは「予測可能な」という形容詞であり、white men foreigners (白人の外国人)で1文節で、

よそ者の白人であることを洗い流した彼ら(白人のよそ者)がここにいることは予測可能だ

となると思います。これだけだと更に意味がわからないですね。前の文章を見てみましょう。

Eat their poison like true ambassadors
We will drink up their beer
So predictable washed out white
Men foriegners are here

Eat their poisonは命令形で、「彼らの毒を食べろ」です。
like true ambassadorsは、「まるで本物の大使のように」です。
We will drink up their beerで、「我々は彼らのビールを飲む」の未来形です。

ですので通して読むと、意訳とすれば、

親善大使のように、毒だと思っている彼らの飯を食べ、彼らのビールを飲め
そうすれば、よそ者の白人なんてレッテルを剝がせることは予測可能だ

となると思います。



そして、続くここです。

Call me master I'll call you boy
If that's all that you need
How that wounds me just leave me here to bleed 

ここが、ちょっと問題でした。

この記事を書いたので友人に意見を求めたところ、これは黒人差別的表現なのではないか?と言われました。

Call me master I'll call you boyは、「わたしをご主人様と呼べ、わたしはお前を召使いと呼ぶ」です。
If that is all that you needは、「それがお前の望む事の全てなら」です。
How that wounds me to bleedで、「それがどれほど私を傷つけ血を流させるだろう」で
just leave me hereで「ちょうどここに私を残して」となります。

わたしの友人は、If that's all that you needの「you」が黒人だと考えたようです。

つまり、「黒人が『わたしをご主人様と呼べ』なんて言いやがったら、奴をぶちのめしてやる」という意味と解釈したようです。

ですが、わたしはそう思いません。

Eat their poison like true ambassadors
We will drink up their beer
So predictable washed out white
Men foriegners are here
Call me master I'll call you boy
If that's all that you need
How that wounds me just leave me here to bleed 

これ全体で一つの文脈ですが、まず、「彼らの飯を食べろ」は命令形なので、誰かに対して言っている言葉、ということになります。

誰に対して言っているか? 親善大使のようにそうするのですから、当然、この街に来ている我々であり、自分の仲間に対してであると解釈できます。後には、「そうすれば白人のよそ者という事実は洗い流せるはずだ」とあり、ここからも白人のよそ者に対して言っていることがわかります。Eat "our" poisonではないので、黒人が白人に対して「我々の飯を食え、そうすれば仲間にしてやる」と命令しているわけでは絶対ありません。

問題なのはIf that's all that you needの「you」が誰なのかですが、先ほども言ったように、ここは、自分の仲間に対して話している文脈なので、「you」というのはやはり、自分の仲間だと解釈するのが妥当だと思います。あるいは、この曲を聴いているあなたに対してです。

「彼ら」つまり、黒人に自分たちをご主人様と呼ばせ、黒人を召使いと呼ぶようなことを望んでいれば、もしここに取り残されたりすれば我々は彼らから袋叩きにあうぞ、という歌詞だと思われます。だって、we were strangers in town、この街では我々はよそ者なんですから。






次に

Black mans burden is on his shoulder 
And keeps him well in his place

ですが、

burdenは「重荷」とか「苦労」です。それが彼の肩の上にあり、彼とはblack man 「黒人」です。

keep him well は「彼を良い状態に保つ」で
in his placeは「彼の立場で」です。

burdenがいつも彼の肩の上にあって、それが彼の代わりに彼の立場を保っている、ということでしょうか。後ろの文を読んでみると、意味がなんとなくわかってきます。

Black mans burden is on his shoulder
And keeps him well in his place
Two hundred pounds worth of megawatts
That smack him in the face
黒人の苦悩はいつも彼らの肩の上にあり、そのおかげで彼らは生きていける
(白人は)たった200ポンド(今日現在2万7千円くらい)の金を、
100万ワットのまばゆい光のように彼らの頬に叩きつける

こんな感じではないでしょうか?

「白人に隷属することで黒人はお金を得られ、それで多少なりとも裕福な生活が出来ています。それは事実です」(←歌詞の意訳)

ここからが重要で、この歌の本当に言いたいことだと思います。

There's no reason to take the weight
Life's not strapped to your head
Don't wear the token till the token black is dead 

There's no reasonで「そこには理由なんてない」
to take the weight (away)で「重荷を取り去る」
Life is not strapped to your headで「人生はあなたの頭には縛り付けられていない」
Don't wear the tokenで「その印を着飾るな」
till the token black is deadは、the token blackで「黒人である証」で、tillは「~まで」、deadは「死ぬ」の過去形ですから、「黒人である証が消えてなくなるまで」です。

ここで考えなければならないのはweightですが、この「重荷」は当然この前で語られた、黒人の肩にのしかかっている負担「burden」であると解釈するのが妥当だと思います。ですから、

黒人の生活の支えとなっている白人への隷属をやめるのに、理由なんてない。
本当のあなたは鎖で縛りつけられてなんかいない、自由なんだ。
だから、肌の色が何であるか分からなくなってしまうその日まで、
いつまでもそんな黒人らしさである隷属をしていてはだめだ。

という意味だと、わたしは思うのです。

つまりこの歌は、1番では黒人の街に降り立った白人の困惑を歌い、2番では黒人の街では彼らを尊重し彼らのようにふるまうべきだと歌い、3番ではその黒人たちに対して「自ら立ち上がらないとだめだ」と歌っているのだと思います。





さて、では、わたしの全文の翻訳を記したいと思います。正しいと良いのですが…


Jet To Jet
急いで黒人になれ


On a short trip we made a landing
Then we were strangers in town
 
短い旅の中、我々はそこに上陸した。
我々はその街ではよそ者だった。 
How they stared as we made our exit
We're white they're all brown
 
我々がそこを去ろうとした時、彼らがどれほど我々をじろじろと見たことか
我々はみな白人で、彼らはみんな褐色の肌だったからだ
Dr.Livingstone where are you
When we need you the most
 
リビングストーン博士(注1)、あなたはどこにいるのか?
我々が一番あなたを必要としているこの時に 
We're white as ivory on the ivory coast  
我々はアイボリーコースト(注2)の、象牙色の砂のような白い肌だ

Jet into jet  
急いで漆黒になるんだ(彼らのようになるんだ) 
旅客機で黒人の国に降り立った(2014/06/30)


Eat their poison like true ambassadors
We will drink up their beer
本物の親善大使のように彼らの飯を食べ、彼らのビールを飲め 
So predictable washed out white
Men foriegners are here
 
そうすれば、白人のよそ者だなんて彼らは見なくなる 
Call me master I'll call you boy
If that's all that you need
 
「私をご主人様と呼べ、私はお前を召使いと呼ぶ」
そんなことがあなたの望む全てなら 
How that wounds me just leave me here to bleed  
ここに私が取り残されたとすれば、どれほど傷つき血を流すことになるだろう 



Black mans burden is on his shoulder
And keeps him well in his place 
黒人の苦しみはいつも彼の肩の上にあってそのおかげで彼は生きている
Two hundred pounds worth of megawatts
That smack him in the face 
白人達はたった200ポンドの金を、まばゆいばかりの光のようにして
彼の頬を叩くからだ
There's no reason to take the weight
Life's not strapped to your head
 
肩の重荷を取り除くのに理由なんてない
人生はあなたの頭には縛り付けられていない 
Don't wear the token till the token black is dead  
あなたが黒人であることが分からなくなるようになるまで、その印を着飾っていてはだめだ

最意訳します。

短い旅で降り立った地だが、我々は完全によそ者だった。
我々がその地を去ろうとする時、彼らはどんなに冷ややかな目で我々を見たか。
我々はみんな白人で、彼らは黒人だからだ。
リビングストーン博士、あなたはどこにいるんだ?
いまこそあなたが必要なのに…
我々の肌はアイボリーコーストの砂浜のように白い。 
彼らのように振舞わないと… 
彼らの食べるものを食べ、彼らの酒を飲もう。
そうすれば彼らと打ち解けることが出来るはずだ。
「私をご主人様と呼べ。私はおまえたちを召使いと呼ぶ」
そんなことを望んでいるなら、
我々はきっと彼らから手痛い仕打ちを受けることになるだろう。 
黒人はいつも虐げられていて、それに甘んじていないと彼らは生きていけない。
白人はわずかな金をまるで大金のようにして彼らをこき使うからだ。
あなたの肩にのっているその重荷を取り除くために、理由なんていらないんだ。
人生があなたを縛りつけるんじゃない。あなたが人生をつくるんだ。
あなたが死んでしまうその時まで、そんな、
黒人であることの重荷に縛り付けられていてはだめだ。



 グラハムの言いたかったことが、やっと理解できた日曜日でした。



(注1:リビングストーン博士=ヨーロッパ人で初めて、当時「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカ大陸を横断した。また、現地の状況を詳細に報告し、アフリカでの奴隷解放へ向けて尽力した人物でもある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/デイヴィッド・リヴィングストン

(注2:アイボリーコースト=西アフリカ:コートジボワールの海岸
http://ja.wikipedia.org/wiki/コートジボワール


ちなみに、この動画のギタリストはイングヴェイが脱退した後のスティーブ・ヴァイ(やはり巨匠)



脱退した後のイングヴェイのギター(ボーカルはジェフ・スコット・ソートだったでしょうか)


ボーカルはどっちも悪くないですが、ギターははるかにイングヴェイの方がメロディアスで素敵です。

というか、イングヴェイは、本当にこんなに暴れながら弾いているからすごい。

そして、後半は彼の尊敬するジミ・ヘンドリックスばりに、めちゃくちゃ。


黒人だけではなく、もっとギターに愛を…




19:48 追記

日本人バンドのすばらしい演奏を発見! すさまじいドラムのテンポにも負けずに、ギターがすばらしすぎ






2012年12月14日金曜日

すぐそこにある児童虐待~あなたの子は未来を担えるか?

ふと、考えました。


外で元気に遊んでいた子供が、遊び疲れてお腹がへったので家に帰ってきました。

「ただいまー」

母親は言いました。

「お帰り」

…。

なんでしょう、この理不尽さは?


疲れ果てて帰ってきたわが子に対して、

「迷惑だ、来るな、帰れ!」

と言っているのです。なんという虐待でしょう? 人格を疑う発言です。



えーと、


まず、「帰る」という動詞は、ら行で五段活用し、「帰らない、帰ります、帰る、帰るとき、帰れば、帰れ」となります。

ところで、日本語の特に女性的表現では、「帰れ」という表現を「お帰り」と表現することがあります。

「気をつけてお帰り」(気をつけてかえりなさい)

こんな感じですね。

ですから、「お帰り」は、「帰る」の命令形ということになります。



口語というのは非常に曖昧で、多くの場合、いくつかの言葉が省略されます。

しかし、通常、省略されるのは主語です。

「バナナを食べたことはありますか?」 

「あります」

省略されたのは、「バナナを食べたこと」という主語です。

述語である「ある」は省略されません。

「バナナを食べたことはありますか?」 

「バナナを食べたこと」

 変ですよね?

「あなたが食べたのはバナナですか?」

(私が食べたのは)バナナです」

やはり、省略されるのは主語です。

述語を省略してしまうと、意味がわからないのです。





ですから普通人間は、述語を最優先して解釈します。




「お帰り」という言葉には二通りの解釈があって、1つは先に述べた「帰る」の命令形ですが、もう1つは名詞「帰還」を意味する丁寧語や尊敬語としての「お帰り」です。

「お帰りをおまちしております」

こんな感じですね。



日本語は非常に曖昧ですから、単順に「お帰り」といった場合、このどちらとも解釈することが出来ます。

「お帰り」が名詞として解釈された場合の本来の意味は、

「お帰り(をうれしく思います。)

となります。

お帰りが動詞として解釈された場合は、

(おまえは)帰れ!」

となります。


ですが、複数の解釈ができる言葉の場合は、基本的な文法に沿って解釈されるべきで、つまり先に述べたように、まず述語として解釈されるべきなので、「お帰り」といわれたら、帰るの命令形である「帰れ!」と言われたと解釈するのが正常な言語のあり方であるはずです。

なんて失礼な母親なんでしょう?



ですから、あなたのかわいいお子さんがお帰りになられたとしたら、決して「お帰り!」などと言ってはいけません。

かならず、

( お帰りを) 嬉しく存じます」

と申し上げましょう。未来を担うべき、日本の宝に対しての配慮が必要です。

そしてこれは、全て冗談です。
















2012年12月12日水曜日

【番外編】あなたは何を見ているのか?~太陽と共に育った人間

本来このブログは「言葉」を使ったお話をしているのですが、今回は番外編として、人間が物を見る仕組みについてお話しします。


人間はなぜ物を見ることができるのか?

それは極めて単純で、目に光が入ってくるからです。

この光を脳が認識しています。

では、机の上にカードがあるとします。この場合はどうなるかというと、


こうなります。

つまり、カードで反射した光を見ているわけです。


さて、人間の目に入ってきた光はいったいどうやって認識されるかというと、大まかにいって、2つの器官によって認識されます。それは、桿体(かんたい)と、錘体(すいたい)です。


:桿体

桿体(かんたい)は、明るさを認識する器官です。片方の網膜に1億2000万ほどあるそうです。桿体(かんたい)は明るさしか認識できず、色は識別できません。

:錘体

錘体(すいたい)は人間の場合3種類存在し、赤錘体緑錘体青錘体と呼ばれ、それぞれれの波長域の光のみ認識できます。桿体(かんたい)と同様に網膜に存在し、その数は650万ほどで、桿体(かんたい)に比べて圧倒的に少ないため、光が弱いと認識率が下がります。暗闇では物の陰影はわかるけれど、色はあまり分からなくなるのはこのためです。


みなさんは、「光の三原色(色光の三原色)」というのを聞いたことがあるでしょうか? RGBという言葉の方がわかりやすいかもしれません。REDGREENBLUEの三色は光の三原色と呼ばれるのですが、これは、上記の錘体(すいたい)に由来するものなのです。


物質の根源を示す概念に「元素」というものがありますが、元素はなにがあろうと元素で変わりありません。ですが、原色は人間だけの概念であって、他の動物にとっては、つまり、別の錘体組織を持つ動物にとっては原色ではなくなります。


人間は太陽光の下で生活する過程で、この錘体(すいたい)器官を発達させました。

太陽光があるのがあたりまえの環境で発達したわけです。

あたりまえなので、それが基準であり、つまり、太陽光そのものには色を感じなくなっています。

これが人間にとっては、「白」という概念になっています。


ところで、太陽光にはものすごく沢山の種類の波長の光が含まれているのですが、なにかの具合で、このうちのいくらかが欠落することがあります。


この光が人間の目に入ったとき、はじめて人間は「色」を感じるのです。




元の光は太陽光なので、あらゆる波長を含んだ「白色光」です。ところが、カードでこの光が反射する段階で、いくつかの波長の光がカードに当たったときに吸収され(熱エネルギーに変換されます)欠落します。

このため、赤いカードにみえたり、青いカードにみえたり、柄のカードにみえたりするわけです。


また、人間の脳は面白い認識機能を持っています。




みてのとおり、赤い水玉模様です。

これを縮小してみます。







ちょっとパターンの境目の格子がでてしまっていますが、ほぼ、ピンクにみえるるのではないでしょうか?

赤の面積は大体40%程度なので、元の赤の40%の矩形と比べて見ましょう。


だいたい同じに見えますね。



このように、人間の目は、極めて小さな面積の中にある光は、その平均の波長が目に入ったのと同じように認識する仕組みになっているのです。


この2つの機能、【3つの錘体(すいたい)】【平均として認識する】を応用した技術があります。

それが、商業印刷なのです。


商業印刷では通常、4つのインキを使って印刷を行います。

シアンマゼンタイエローブラックの4色です。


なぜこの4色なのでしょうか?



これを見てください。



背景は黒、つまり、光が全く当たっていない状態です。

ここに、赤、緑、青の光の三原色をちょっとずつずらして照射しました。結果がこれです。

中央は、赤、緑、青が全て当たっているので、太陽光と同じになり、白になります。

注目して欲しいのはその外側の2つの光が交差する部分です。ここに、先ほどのシアン、マゼンタ、イエローの3色があることが分かるでしょうか?

緑と青の光が当たるとシアンに、赤と青の光が当たるとマゼンタに、赤と緑が当たるとイエローになるわけです。



今、机の上にシアンに見えるカードがあるとします。思い出してください。太陽光は、あらゆる波長の光を含んでいます。

そして、人間の目には、その光がカードに当たって一部の波長の光が熱エネルギーに変換されて吸収され、残りの光が反射して、人間の目に入ってシアンだと認識されています。

では、吸収されて欠落した波長の光は、なんでしょうか?

上図のシアンの部分に当たっていない光、つまりとなります。

同様に、マゼンタが欠落、イエローが欠落した結果、そのように、見えることになります。

つまり、インキのシアンとは白色光からの波長域の光のみを吸収する色、マゼンタのみ、イエローのみを吸収する色ということなのです。

商業印刷というのは、この性質を利用しているのです。
この、シアンマゼンタイエローを「光の三原色」に対して「色の三原色(色料の三原色)」と呼びます。

例えば、シアンのインキとマゼンタのインキを等量混合したとします。シアンは赤を吸収し、マゼンタは緑を吸収するので、ここから反射されて出てくる光はだけになります。つまり、シアンマゼンタのインキをあわせると、として認識されるのです。


光の三原色では、光の量を増やすことで認識する色が変化して最終的には白になるのに対し、色の三原色では、光の量がどんどん減っていき(吸収されていき)残った光を認識することで色を認識し、最終的には黒になる(目に届く光がなくなる)というわけです。

このため、光の三原色は「加色混合(色を加えていく混合)」、色の三原色は「減色混合(色を減らしていく混合)」と呼ばれます。

さて、色の三原色はわかりましたが、では、なぜブラックが存在するのでしょうか?
シアンマゼンタイエローを適量混ぜれば出てくる光がなくなって黒になるはずでは?



確かに、光は物体に当たった時、一部が熱エネルギーに変換されて吸収されます。

しかし光を完全に吸収してしまうことはありえません。色の三原色は元々、特定の色域以外は反射する性質なので、混ぜ合わせても、同様に反射されて出てきてしまう光があります。

ですから、シアンマゼンタイエローを適量混ぜても全ての光を吸収することはありません。わずかな光が反射されてくるので、大体、深い茶色にしかなりません。

そんなわけで、ほとんど反射されてくる光がない、完全な黒と認識できるインキを別途用意する必要があるのです。これが、ブラックインキの存在理由です。

このブラックインキは、人間が色を認識できる理由である錘体(すいたい)のメカニズムから導き出されたわけではなく、色の三原色シアンマゼンタイエローの存在理由とは全く別の概念で導入されているわけです。

また、色の三原色シアンマゼンタイエローですが、たとえばシアンの場合、だけ吸収するかというとそういうわけでもなく、もわずかに吸収されて熱エネルギーに変換されます。

ですので、シアンマゼンタでつくった青は色の光と等価かというとそんなことはなく、混色したの方が暗く見えます。これは色料の混色全てにおいていえることで、色料の混色で表現できる色域は、色光の混色で表現できる色域よりも、ずっと狭いものになってしまいます。

想像していただけるとわかるのですが、蛍光色というのは色料の混色ではなかなか表現できません。蛍光色は、沢山の光が反射されなければなりませんが、物体に当たった激しい光の多くは吸収されて弱くなってしまいます。

ですから、蛍光色を表現するためにはインキ自体を反射率の高いものにする必要があります。

このため、特色(とくしょく)と呼ばれる、その色の表現に特化した、特別なインキを用いることが必要なるわけです。

家庭用プリンタでは、シアンマゼンタイエローブラックのほかに、ライトシアン、ライトマゼンタといったインキを別途使うことが多くなっています。

これは、より光の反射率の高いシアンマゼンタを使うことで、表現できる色域を広げる狙いがあります。

こうした概念に加えて、前に説明した、「極めて小さな面積の中にある光は、その平均の波長が目に入ったのと同じように認識する仕組み」をあわせることで、反射されて出てくる光をコントロールして多彩な色を表現しているのが商業印刷なのです。

商業印刷はものすごく大雑把に言うと、とても大掛かりなハンコです。

ハンコには色の濃淡はありません。インキのついた部分が紙に転写され、ついていない部分は転写されません。

ですが、このインキのつく部分を極めて小さな点の集合にして、単位面積あたりのその比率を変化させることで、人間の目で認識できる色をコントロールしています。



みなさんが見ている印刷物は、こうした、極めて単純で人間の器質に由来する技術に基づいて作り出されているのです。

元写真


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ちょっとすごいでしょ?














2012年12月8日土曜日

理想は実現できるか?~子供の頃に聞いたお話の考察

年中僕らは会社勤め。
朝早く起きて満員電車に揺られ、会社では仕事の山で定時に帰れることなんてない。残業代はでないし、わずかだったボーナスも去年の冬から全くなくなった。 
いっつも終電。 
へとへとになって帰り着いた家にはだれもいないし、なんにもやる気が起きないから、シャワーあびて寝るだけ。 
そんなことのくりかえし。 
一生懸命働いても上司は認めてくれなくて、いつでも僕らが仕事をさぼらないか監視していて、成果が上がらなかったり、ちょっとでもミスをしようものならまるで給料泥棒とでも言わんばかりにグチグチとお説教さ。あんた、いったいどれほど俺に金を払ってくれてるっていうんだよ! 

耐えかねた僕はある日、ささいなことで上司と口論になり、カッとなって退職願を叩きつけて辞めてやった。 

やっと得た自由。なんてすがすがしいんだ。 

僕は高卒だからハンディキャップはあるだろうけど、頭は良い方だしやればできる奴だから大丈夫。 
仕事なんていくらでもあるんだし、まぁ、なんとかなるっしょ 。

高校の時の友達の女の子に「会社辞めてやったよ、せいせいした」って言ったら、とてもうらやましがってた。どこの会社も理不尽なんだな、ほんと、クソみたいな世界だよ。 

もう、毎日が楽しくてたまらない。あさっぱらから夜中までゲーセンやネカフェに入りびたり。貯金はあんまりないから贅沢はできないけど、なんて幸せなんだ! 

たまに母親が「あんた、これからどうするの?」って電話してくるけど、まったくうるさいよ。あんなにこきつかわれたんだ、ちょっとくらい休ませろっての。たまにハローワーク行ってるけど、ろくな仕事ないんだって。おまえ、やってみろっての。どうせすぐに次の仕事みつかるよ。 
でもさすがにウザくなってきたから、最近は居留守つかってるけどね。 

貯金少ないから、飯は1日1食。でもやっぱり腹は減るからさ、なんか食べなきゃ。 
たまには焼肉でも食べないと身体に力が入らない。カップ麺ばっかじゃ、さすがに栄養偏るってw 
なんか、やつらを見返してやるいい儲け口ないかな… 

ネカフェでパソコン見てたら、おいしそうな広告発見。 
「わずかな投資で、絶対に儲かる裏技教えます!パソコンの前にすわっているだけで、楽して月収1000万円」 
ほんとかね? でもまぁ、登録料無料みたいだし、登録だけしてみるか、どうせタダだ。 
それが間違いだった。 

口車にのせられて、変なシステム利用料のためにローン組まされた。「最初は大した収益はないけど、3ヶ月後からは利益がでますよ」って、もう半年たつのにぜんぜんじゃないか! 
毎月の利用料のせいで貯金はどんどん減っていって、とうとう0になった。でも途中解約すると、違約金を払わなきゃいけないから、あと半年は解約できない。 

とにかく、システム利用料を払うために仕方なく消費者金融の扉を叩いた。あとは転落人生。借金で借金を返す生活。そのうちにどこでも借りられなくなり、あやしい広告をたどって借金を口利きしてくれるって業者へ。 
薄暗い雑居ビルにある闇金のドアをくぐると、チンピラ風の男がじろじろと僕を嘗め回すように見たあと、奥へ招き入れた。奥には趣味のわるいド派手なスーツを着た禿親父が座っていた。 

結局僕はダメなやつなんだ。前は、借金まみれになって自己破産する奴とか自殺しちゃう奴とかニュースで見て鼻で笑ってた。自分はこいつらとはちがう、特別な人間だなんて思ってたけど、あいつらと変わらないロクデナシなんだ。 

禿親父はにやにやしながら、したなめずりするようにゆっくりと、「で、いくらほしいの?」って言った。 
地の底から響いてくるような野太い声で身体中から血の気が失せ、もう、取り返しのつかないところまで来たんだって悟った。 








引用:およげたいやきくん
まいにち まいにち ぼくらは てっぱんの うえでやかれて いやになっちゃうよ 
あるあさ ぼくは みせのおじさんと けんかして うみに にげこんだのさ 
はじめて およいだ うみのそこ とっても きもちが いいもんだ 
おなかの アンコが おもいけど うみは ひろいぜ こころがはずむ 
ももいろサンゴが てをふって ぼくの およぎを ながめていたよ 
まいにち まいにち たのしいことばかり なんぱせんが ぼくの すみかさ 
ときどき サメに いじめられるけど そんなときゃ そうさ にげるのさ 
いちにち およげば ハラペコさ めだまも クルクル まわっちゃう 
たまには エビでも くわなけりゃ しおみず ばかりじゃ ふやけてしまう 
いわばの かげから くいつけば それは ちいさな つりばりだった 
どんなに どんなに もがいても ハリが のどから とれないよ 
はまべで みしらぬ おじさんが ぼくを つりあげ びっくりしてた 
やっぱり ぼくは タイヤキさ すこし こげある タイヤキさ 
おじさん つばを のみこんで ぼくを うまそに たべたのさ 
(およげ!たいやきくん 作詞 高田ひろお :作曲 佐瀬寿一:唄 子門真人)



2012年11月29日木曜日

姨捨山~Obasute-yama

姨捨山(Japanese folklore "Obasute-yama")

Thanks to D

日本語の文章は、http://www.pref.nagano.lg.jp/kids/menu3/minwah01.htmより引用しています。

 昔、年よりの大きらいなとの様がいて、「60さいになった年よりは山にすてること」というおふれを出しました。との様のめいれいにはだれもさからえません。親も子も、その日がきたら山へ行くものとあきらめていました。

Long long ago, There was a lord who is hating old people. He said "People who getting 60 years old are thrown away in the mountain." Anyone couldn't defy about his order, Parent, Child, everybody had given up to go against. If the day comes, everybody had gone to the mountain.

  ある日のこと、一人の若い男が60歳になった母親をせおって山道をのぼっていきました。気がつくと、せなかの母親が「ポキッ、ポキッ」と木のえだをおっては道にすてています。男はふしぎに思いましたが、何も聞かずにそのまま歩きました。

One day, a young man carried his 60 year old mother up the mountain. Inadvertently, he noticed that mother break a tree branch, and abandon to the road. He had wondering about it, but he began to walk without asking anything.

  年よりをすてるのは深い深い山おくです。男が母親をのこして一人帰るころには、あたりはもうまっ暗やみ。男は道にまよって母親のところへ引きかえしてきました。

The place that thrown old people away is deep mountains. It was getting dark when a young man tried to return. A young man was lost his way, and went back to the mother.

 むすこのすがたを見た母親はしずかに言いました。「こんなこともあろうかと、とちゅうでえだをおってきた。それを目印にお帰り」。子を思う親のやさしい心にふれた男は、との様の命令にそむくかくごを決め、母親を家につれて帰りました。

The grandma saw her child, said "For this occasion, I had broke branches on the way. You should go back follow it". He had faced the mother's tender heart, he decided to defy their lord. He took his mother back to home.

  しばらくして、となりの国から「灰でなわをないなさい。できなければあなたの国をせめる」と言ってきました。との様は困りはて、だれかちえのある者はいないかと国中におふれを出しました。男がこのことを母親につたえると、「塩水にひたしたわらでなわをなって焼けばよい」と教えられ、男はこのとおりに灰のなわを作り、との様にさし出しました。

After a while, The Lord of neighboring big country said "Make a rope with ash, Or your country are attacked". The lord is greatly perplexed, asked everybody "Is anyone there who has good idea?" A young man told his mother about this, she said "soak straws in the salt water, and make a rope with it, then burn it". A young man did it, and presented to the lord.

  しかし、となりの国ではまたなんだいを言っていました。曲がりくねったあなの空いた玉に糸をとおせというのです。今度も男は母親に、「1つのあなのまわりにはちみつをぬり、反対がわのあなから糸を付けたアリを入れなさい」と教えられ、との様に伝えました。 すると、となりの国では「こんなちえ者がいる国とたたかっても、勝てるわけがない」とせめこむのをあきらめてしまいました。

But, The Lord of neighboring country had been saying the impossible again. "Thread a ball with winding hole".  A young man asked his mother again, then she taught that "Spread the honey around a hole one side, and put a ant with a yarn on the other side". He did it, and presented to the load again.

Then, The Lord of neighboring country thought that "I would not win, if I fight with this country there are people of wisdom", and gave up the attack.

  との様はたいそう喜び、男を城によんで「ほうびをとらす。ほしいものを言うがよい」と言いました。男は、「ほうびはいりません。実は・・・」男は決心して母親のことを申し上げました。

The Lord had very happy, and called a young man to his castle. He said "I will give you a reward. Say what you want". A young man said "I want nothing. As a matter of fact...". A young man decided to tell about his mother.

「なるほど、年よりというものはありがたいものだ」と、との様は自分の考えがまちがっていたことに気づき、おふれを出して年よりをすてることをやめさせました。それからは、どの家でも年おいた親となかよくくらせるようになりました。

"Hmmm, Old people are valuable". The Lord had noticed that his idea was wrong, and put a stop to throw old people away. Since then, Everybody can live with their old parents.


姨捨山(おばすてやま)(長野地域 Nagano, Japan)


:Caution

姨(oba) means that mother's sister.
捨(sute) means that throw away.
山(yama) means that the mountain.

姥(uba) means that grandmother.

Therefore, According to the theory, It is a Ubasuteyama(姥捨山) not a Obasuteyama(姨捨山).






2012年11月21日水曜日

可能の王国は築けるか?~ペイ・フォワードの教訓

先日チャットをしていたら、友人が「ペイ・フォワード」という映画の話をしてくれました。

この映画のあらすじとしては、

一人の少年が、まず、3人に対して何か良いことをしてあげます。その3人は、その少年に恩を返すのではなく、全く別の3人に良いことをします。それを受けた3×3人は、また別の3人に良いことをします。その3×3×3人は、また別の3人に… 

こうして、たった一人から始めた善意は膨大に拡散していき、やがて世界を埋め尽くすだろうという考え方にそってストーリー展開がされていきます。

いわば、ねずみ講の善良版ですね。
(注:ねずみ講との決定的な違いは、利益がバックされず、常に前方にのみ進むことです。このため犯罪のモデルとしては利用しにくくなります)

友人とチャットをしながら、なかなか面白そうな映画だなと思ったわたしは、ふといたずら心がわいたので、「なんで3人かわかる?」とたずねました。

彼が「わからない」と言うので、わたしは以下のように答えました。



 人間はそもそも、善であるか、悪であるか? 
 わたしの答えは、「善人もいれば、悪人もいる」である。 
 その善悪の度合いこそ様々であろうが、世界が善意に溢れてはいないし、かといって悪意にも満ち溢れてもいないことから考えると、おそらくその比率は半々だろう。
 つまり、あなたの隣にいる人が善人である確率は1/2だし、悪人である確率も1/2だ。 
 無償の善意に対峙したとき、善人は感謝するが、悪人はお人好しとあざ笑うだろう。 
 もし仮にあなたが無作為に他者に対して善行を施し、別の他者に対してその行為を伝えるように促した場合、その人がそれに対して感謝の念を抱き、他の誰かにそれを伝える確率は1/2となることになる。
 つまり、2回に1回は伝わらずに途切れる。

 仮に伝えるのが1人であった場合、その次に伝わる確率は1/2、その又次に伝わる確率は1/4、その又又次は1/8…と、どんどん少なくなっていく。つまり、確実にどこかで途切れる。 
 では2人であった場合はどうか? 確率どおりにいけば、2人のうち1人が伝え、1人が伝えないので、常に1人が1人に伝えていくことになる。これではただのバケツリレーで絶対に拡散するはずがなく、世界を満たすことは不可能だ。 
 これが3人になるとどうなるか? 2人に1人が次に伝えるので、3人に行った場合は1.5人が賛同して次に伝える運動に加担する。1人がこの運動を行うと1.5人が次に伝えるわけだ。つまり、1.5×1.5×1.5…というように、1.5の累乗で伝わる人間が増えていき、次第に拡散する。 
 理論値では、10回の伝達が行われた場合57.6人、20回で3325人、30回で19万人、40回で1100万人、50回で6億4千万人、56回で72億人になるのでこの段階で善意が地上を席巻する。(正確には半数が悪人という前提なので、55回目以降は同じ人同士の善意のループになり、これ以上拡散しない。また、これは延べ人数である)
 4人以上であれば、より少ない伝達回数で済むことは、これ以上説明するまでもないだろう。

 しかし、見返りを求めない行為というのは言うだけなら簡単だが、実際に行うのはかなりの負担だ。皆、自分が生きていくのに精一杯で、他人に対する思いやりはなかなか持てないのが現実世界であり、それが、全く見ず知らずの赤の他人に対してであればなおさらだろう。 
 だから、出来るだけ沢山の人に伝えようなどということは望むべくもない。 もしどうしてもしなければならないのであれば、可能な限り少ない人数の方が良いことは明白だ。 
 この運動は、次につなげながら拡散させていき最後は全てを埋め尽くすことを目的としているので、次につなげようという意思そのものを阻害してしまうような人数であってはならない。 
 これらを考慮すると、3人という数字は、個人の負担を極限まで減らしつつ運動を確実に拡散させていくための必要最低限の人数であるということが結論付けられるのである。
 以上が、わたしが考えるマジックナンバー“3”の意味だ。

そうすると、友人が「でも、人間はそう簡単に善人とか悪人とか区別できないよね?」というので、わたしはこう答えました。


 仮に人間が善でも悪でもないとする。 
 その場合、人の行いはその時点でのその人の境遇と心理状態に左右される。 
 その人が上機嫌か幸せであれば、恩を受けたらそれを誰かに伝えることはやぶさかではないし、不機嫌か不幸であれば、なかなかそれはかなわないだろう。 
 幸せという概念は人それぞれに価値観が違うので、裕福であっても不幸だと感じる者もいれば、貧困でも幸福ととらえるものもいてその経済状態では判断できないから、これを理由としてどちらかに偏ることはないと考えられる。 
 常に不機嫌な人もいることはいるが、同じように常に上機嫌な人もいる。そういう特異な人を除くと、大抵、人は上機嫌であったり不機嫌であったり定まらず平均する。 
 つまり、やはり次の人に伝わる確率は1/2だ。




チャットをしながら、「ああ、これ、ブログのネタになるな…」と思っていて、今日、時間が空いたのでDVDを借りてきて初めてみました。

女性と関係を持ったことがない(おそらくデートもしたことがない)先生が、少年の母親に会いに行くために、ブラウンのスーツにおおよそ合わない白いスニーカーを履いて行ったり、学のない母親が先生のしゃべり方に対して自分が見下されていると勝手に思い込んで劣等感を感じたり、アルコール依存症患者のDVとその被害者の関係が深く関わっていたりと、本題としての善意の伝達とはあまり関係のないところのストーリーや描写の作りこみにまでこだわりを感じる、素晴らしい映画でした。



 この記事を書くにあたり、他に同じことを考えている人がいないかと思い「ペイフォワード "なぜ3人"」という検索ワードでgoogle検索してみたところトップがこれ(http://blogs.yahoo.co.jp/keiichih2002/47768891.html)でした。

慧君さん、納得いただけますでしょうか?

他にはヒットしせず、2000年の映画の割に誰もこれについて論じていないので、そこはあまりこだわるところじゃないのかな? などと不安になったりもしました。("どうして3人"で1件ヒットしましたが、必ず伝達が行われるという仮定に無理があるので、記者の名誉のために引用しません)


それから、こんな投稿も見つけました。



はじめまして  投稿者:梅ちゃん  投稿日:2007年 2月 3日(土)18時14分17秒 
何度もみました。。。。。
でも 最後なんでああなるわけ? 
なにを言いたい映画だった?
「社会の抑圧」?「AC」?「社会の歪み」 
http://8726.teacup.com/payforward/bbs?page=9



この記事を書いた後で調べた映画評論サイトの掲示板では物語の結末に憤りを感じている書き込みが非常に多く見られました。

この疑問は極めて重要なので、これに対するわたしの見解を述べて締めたいと思います。


 前述したとおり、世の中には善人もいれば悪人もいます。 
 もしあなたが目の前の人が善人であるか悪人であるか判断できるのであれば、善人だけを選んで可能な限り沢山の人に善行を行ってください。 
 しかし、残念ながら、あなたにはその判断は必ずしもできないでしょう。 
 悪人というのは、あなたが彼、あるいは別の者に与えた善意、ないしは行った善行を快く思わず、時にあなたに対して危害を加える場合があることを忘れてはなりません。
 あの結末は、これに対する警告です。 
 もう一度言いますが、この運動の目的は、善意を次に伝えることで拡散させていき、しまいには世界を埋め尽くすことです。その遂行には、確実に3人に伝えることこそが重要となります。 
 あなたが善人であるにもかかわらず、あなたが伝えるはずであった人に伝えられずに倒れたなら、この運動の拡散速度は確実に減速します。ですから、決して無理をしないでください。無理をすればそれだけ、理想の実現が遠のきます。 
 恥じるべきはしようとしないことであって、出来なかったことを恥じてはいけません。 
 あなたに出来ることを、あなたの出来る範囲でなおかつ“確実に”やる、それこそがこの運動にとってとても重要なことなのです。




(Please forgive the mistakes in English.)


The other day, When I had chatted with my friend, he told me about a movie "Pay it Foward".

The story of this movie,

First, A boy do something good for other 3 people, then they do something good for other 3 not for the boy.
So, they 3 x 3 people will do something good for other 3 too. Moreover, 3 x 3 x 3 people are do something good for....

Thus, the goodwill spawned by only a boy is spread guradually, Finaly, it will cover all of the world.

The story progress with this way of thinking.

It is just like benignant ponzi scheme.

While chatted with my firend, I thought that "It looks interesting.", and wanna play a prank on him, I asked him that "Why 3 people, do you know?".

He said "I don't know.".

Then I said as follows.


In the first place, is the human good or evil? 
I think that someone is good and someone is villain. 
The extent of goodness or evilness is differernt, but when I think about that the world is not filled with goodwill and not filled with evil to, I think that the ratio would be half and half. 
Namely, the probability a person who standing next to you is good is 1/2, alternatively, probability of evil is 1/2 too. 
If someone meets a goodwill ask no favors, good people will appreciate it, but evil will sneer. 
If you do something good for other randomly, and prompted to do it to someone else, the probability he do it will 1/2. That means, if you do twice, one will be not performed. 
Provisionally, if the number of people transfer the goodwill is only one, the probability that transmit to the next is 1/4. and next is 1/8, and next is 1/16.... It will be getting less steadily, break somewhere surely. 
How it will be if it is two? If the probability works exactly, one transfer to other, but one doesn't it. As a result, the number of people transfer the goodwill is always only one. This is just a bucket brigade, never spread. 
So, what happens when this becomes three? one of two will transfer, so 1.5 of 3 will agree to take part in this strange movement. 
In other words, one do this, 1.5 people transfer it to the next. Namely, 1.5 × 1.5 × 1.5...,  the number of people who is receive the goodwill will be increased by power of 1.5, and it will be spread. 
In theory, do 10 times transfer, 57.6 people recive it. In 20 times 3325, 30 times 190,000 people, 40 times 11,000,000 people, 50 times 640,000,000 people. At 56 times do it, it will be 7,200,000,000 people, and the ground is dominated by goodwill.
(In the assumption that evil is half of all, it will not be spread more after the 55 times because there is no good people other else.) 
If 4 or more, It is clear that the number of times we need is fewer. 
But the act that does not require a return is hard work usually. In real life, everyone can not afford, having compassion to others is difficult comparatively. If it is for quite stranger, it would be more difficult. 
So, There is no hope to transmitted to as many people as possible is. If we must transfer, the number of that we transfer should be as little as possible. 
This movement is intended to be filled all of the world at last by transfer to next continuously, it must not be too much enough to inhibit the willingness that we transfer to the next. 
When I think of these, 3 is the required minimum number, as much as possible to reduce the burden on the individual, to transfer to next surely. 
This is my conclusion of magic number "3".






2012年11月18日日曜日

とある朝の夢~道を踏み外した人間の妄想

兄が子供を拾ってきた夢を見ました。

うちで育てることになって、子供の服とか下着を買いに行く計画を立てたりしました。

そのうちにいつのまにか子供は小学校高学年になっていて、「ああ、中学の学費とかなんとかしないとな…」などと考えているうちに目が覚めました。

たぶん、昔、兄が猫を拾ってきたことに起因するのだと思います。

とりあえず、子供がとてもかわいいと感じました。

普通のありきたりな人生を歩けなかった人間は、こんな夢を見ることがあるようです。








2012年11月17日土曜日

猿はバナナを取るためにはしごを登るか?~飴とムチの教訓

知人がfacebookで、とあるブログの記事を紹介していました。その記事は以下のようなものです。


 部屋に8匹の猿を入れます。 部屋の中央にははしごが設置されています。 そのはしごに登ると天井から吊るされたバナナ(注:正確にはbunch of bananasとあるので、バナナの房)を取れるようになっています。 
 猿がはしごを登ろうとすると、全ての猿に氷水が降り注ぎます。 しばらくすると、猿達は氷水をかけられたくないので、はしごを登る猿を攻撃するようになります。 その後、どの猿もはしごを登ろうとしなくなります。 
 元々いた8匹のうちの一匹を新しい猿に置き換えます。 新しく来た猿は、はしごとバナナを見ます。 何故、他の猿達がバナナを取りにいかないのかと不思議に思いつつも、新参者の猿はハシゴを登ろうとします。 すると、他の猿達はその新参者の猿をフルボッコにします。 新参者の猿は何故ボコボコにされたのかはわかりませんが、梯子を登ろうとするのをあきらめます。 
 元々いた8匹のうち、さらにもう一匹を新しい猿に置き換えます。 新参者の猿はハシゴを登ろうとしてボコボコにされます。 以前ボコボコにされた新参者だった猿も他の皆がやっているため、今回の猿をボコボコにする行為に加担します。 しかし、何故はしごに登ろうとする猿を攻撃しなくてはならないのかは全くわかっていません。 
 元々いた8匹の猿を一匹ずつ置き換えます。 元々いた全ての猿は部屋にいなくなっています。 今、部屋に居る猿は氷水を浴びせられたことがありません。 また、はしごに登ろうとする猿もいません。 全ての猿は、はしごに登ろうとする猿を狂ったようにボコボコにします。 しかし、何故そうしているのかは誰も見当がつきません。
 そして、企業文化(企業規則、方針)もこのようにして決まっていくのです。

この記事も元々は海外の記事の流用のようで、その出所はよく分からないようです。( http://www.geekpage.jp/blog/?id=2007%2F10%2F22

なかなか的を射ているので、さらに考察してみることにしました。



では、最初の猿が登った時に、他の猿にも均等にバナナを分けあたえるとどうなるか?

元の記事には明記されていませんが、はしごを登るのはかなり困難な作業だと思われます。もし簡単なら、氷水など気にせずに沢山の猿がはしごを登るでしょう。バナナはそれくらい魅力的ですから。

バナナは魅力的だけど、はしごを登るのは大変なので躊躇する、という前提でないとそもそもの話が成立しません。


そのはしごを登らなくてもバナナがもらえるなら?

そうすると梯子を登った猿はバカらしくなって自分から登らなくなります。

大変なはしご登りですから、登らなくてもバナナが貰えるのであれば、あえて登らなくなるのは当たり前のことです。誰かが登って、そのおこぼれにあずかっていたほうがずっと効率が良いのです。





誰もはしごを登らないので、結果として、誰もバナナが貰えなくなります。

猿を8匹も飼っているということは飼い主は見世物にしてお金を取ろうと思っていて、そのお金からバナナ代も出ているのですが、猿がはしごを登ってくれないから、見物客は面白くないのでお金を払いません。

そうすると飼い主も懐具合に困ってくるので、登る猿がいなければ、なんとかはしごを登らせるために全猿に冷水をかけ始めます。

そこで「これはたまらない」と、また勇気ある一匹がはしごに登るわけですが、今度は飼い主も懐がさみしいので、その猿にバナナは取らせるけれど、他の猿に与えるバナナの量は少なくします。

とりあえず前回のことで、全部の猿に氷水をかければ登ってくれる猿がいるということに気づいた飼い主は、猿が登らなければとにかく氷水をかけるようになります。

しかし、一度離れた見物客の心はなかなか戻らず、猿がたまにはしごを登ってもあんまりお金を払ってくれなくなっているので、飼い主の懐はあいかわらず潤いません。懐具合が厳しいので、登った猿に与えるバナナの量も減っていきます。

飼い主としては見世物の猿に死なれては元も子もないので、仮に登らないとしても、最低限のバナナは与えなければなりません。ですから、苦労してのぼった猿によって得られたお金の多くが、何もしない猿のバナナ代に消えることになっていきます。

そのうちにはしごを登る猿は、苦労して登って得られるバナナの量と何もしなくても与えられるバナナの量の不均衡、登ってもかけられる氷水に理不尽を感じて部屋から逃げ出します。

残ったのは常に氷水をかけつづける飼い主と、氷水をかけられても気にせずはしごにも登ろうとしない、冷たさへの耐性をつけた他力本願な猿だけになります。

このようにして、企業は競争力を失っていくのです。

そしてこれは、実話です。



※註
 読んでいただいた方は気づいていると思いますが、原文とわたしの考察とでは、バナナと氷水の持つ意味が変わっています。
 原文でのバナナとは従業員全体の利益であり、氷水はこれを快く思っていない経営陣による罰や粛清です。
 一方、わたしの考察ではバナナは単純に地位や金銭といった報酬であり、氷水は経営陣の叱咤です。
 原文の氷水はそれを行うことに対する罰であるのに対し、わたしの考察ではそれを行わないことに対する罰になっています。
 原文では動物学的考察のように話を進めていって、最後に、これは人間組織に対しての揶揄であることを明かしています。
 わたしの考察は、この種明かしが既に行われた後なので、その種をもっと現実社会に照らし合わせるとどうなるか? という観点で行っています。
 原文のような会社は実際に存在し、このかなり酷い、いわゆるブラックと呼ばれる会社にわたしも在籍したことがあります。(現在、人権侵害や賃金不払いなどで訴訟を起こされていて、既に結審し、この12月に地裁で判決が下ることになっているようです)
 ただ、わたしがいた会社ほどブラックであれば、気づいたら一目散に逃げてしまえば良いだけなのでそれほど問題ではないと考えています。
 わたしにとっては、バナナを得るためにひたすら努力してもじわじわとバナナが減って行って、気づいたら何をしても全員が貰うバナナが同じになっていた、というのがずっとタチが悪いと感じます。これは資本主義下にある企業にもかかわらず、既に社会主義下と変わらなくなっていて、それが競争力を失っていくことは歴史から考えて明白だからです。
 こういう会社は、すぐにあきらめたり投げ出したりしない強い心を持った勤勉な者ほど損をし、「これはダメだ」と見限るまでにかなりの貴重な時間を浪費することになるので、要注意です。




:Original

 Put eight monkeys in a room. In the middle of the room is a ladder, leading to a bunch of bananas hanging from a hook on the ceiling. 
 Each time a monkey tries to climb the ladder, all the monkeys are sprayed with ice water, which makes them miserable. Soon enough, whenever a monkey attempts to climb the ladder, all of the other monkeys, not wanting to be sprayed, set upon him and beat him up. Soon, none of the eight monkeys ever attempts to climb the ladder. 
 One of the original monkeys is then removed, and a new monkey is put in the room. Seeing the bananas and the ladder, he wonders why none of the other monkeys are doing the obvious, but, undaunted, he immediately begins to climb the ladder. All the other monkeys fall upon him and beat him silly. He has no idea why. However, he no longer attempts to climb the ladder. 
 A second original monkey is removed and replaced. The newcomer again attempts to climb the ladder, but all the other monkeys hammer the crap out of him. This includes the previous new monkey, who, grateful that he's not on the receiving end this time, participates in the beating because all the other monkeys are doing it. However, he has no idea why he's attacking the new monkey. 
 One by one, all the original monkeys are replaced. Eight new monkeys are now in the room. None of them have ever been sprayed by ice water. None of them attempt to climb the ladder. All of them will enthusiastically beat up any new monkey who tries, without having any idea why. 
 And that's how company policies get established.


:My Consideration (Translate)

(Please forgive the mistakes in English.)



 I am thinking about after this.

 Well, If all the monkeys get a bananas evenly when the first monkey climb the ladder, How would it be ?

 Although it is not written in the original post, it seems very difficult that a monkey climb up the ladder. If it is easy, many monkeys are climb it spite of ice water . Bananas are almost fascinating.

 If it is easy that climb the ladder, it is strange in logically.

 Then, How it goes, if monkeys get bananas without climb up the ladder ?

 The monkey climbed the ladder first will never climb it up again.

 It is naturally that monkeys climb the ladder no longer, if they get bananas without climb it. Because it is very difficult and is hard work. Waiting for bananas are dealt when anyone climb the ladder is much more efficient than climb it.

 Then, no monkey climb up the ladder, no monkey get any bananas.

 The reason that the owner keeps monkeys also 8 one, he want to get sightseeing fee by exposing the monkey. Money to buy bananas are out from the fee. But, no monkey climb the ladder, no one pay the fee.

 The owner has financing trouble, and he will spray ice water to all monkeys in order to make any monkey climb up the ladder if no one try.

 Then, a courageous monkey think about ' This is tough ! ' climb up the ladder.

 In this time, the owner give him bananas, and cut down bananas to give to others, because the owner has not many money.


 Tentatively, The owner notice that any monkeys are climb up if he spray ice water to all of them. He is getting spray it anyway if no monkeys climb up.


 But, the popularity once lost can not be recalled easily, people don't pay many fee if a monkey climb up the ladder. Therefore, The owner has financing trouble continuously. The owners money getting less, bananas that is given for a monkey climb up the ladder is getting less too.

 For owner, the worst of all is that the all monkeys died. Even if no monkey climb the ladder, he must give minimum bananas for them. So, many of the money obtained by the monkey climb the hard way is consumed as a cost of bananas for monkeys does nothing.

 Soon, the monkey that climb up the ladder feels imbalance between amount of bananas he get when he climb up and when he don't, and feels unreasonable to the fact that he will be sprayed with ice water regardless of whether he climb or not. Finally, he run away from the room.

 All that remains are the owner who is spraying with ice water continuously, and monkeys never climb up the ladder, with tolerance to cold, always rely on others.

 Thus, many company lost competitiveness.

 And this is non fiction.






2012年11月12日月曜日

ご質問です!再び~おまえ、元気すぎるだろ!



タイトル:ご質問です!
投稿者:たかくん 
こんにちは。初めて投稿します。
今、LightWaveを使っているのですが、グラフィックカードについてホニャララ…


インターネットを利用していれば、大抵は質問&回答型の掲示板を見たことがあると思いますが、そういった掲示板でよく目にするのが、上記のような投稿です。

…、 なんか、デジャヴュ…。

この投稿に違和を感じるかどうかは、どうも、ある年代を境にして真っ二つに分かれるらしいです。

今回の論点は勿論、敬語表現についてではありません。これについて読みたい方は、「ご質問です!~お前たち私の疑問にこたえなさい」(http://dracul-dormea.blogspot.jp/2012/11/blog-post.html)をご覧ください。

今回の主題は、感嘆符についてです。

「!」 これですね。



感嘆符はかなり昔から存在して、いまさらその起源をさぐるのは無理でしょう。英語では、エクスクラメーションマーク(Exclamation mark)と言い、日本語で用いられるのとほぼ変わらない用途で用いられます。恐らく向こうが起源でしょうが、具体的なことは知りません。

この記号の意味についてはあまり説明する必要は本来はないはずなのですが、wikipediaから引用します。


感嘆符(かんたんふ)とは、約物のひとつで、「!」と書き表される。雨垂れ、または俗にビックリマークとも呼ばれる。また英語表記に由来した呼称「エクスクラメーション・マーク (exclamation mark)」と呼ばれることもある。強調を表し、強調を表す対象の後に置かれる。英語では「エクスクラメーション・ポイント (exclamation point)」ともいい、俗に「バン (bang)」や「スクリーマー (screamer)」などとも呼ばれる。
視覚的な表現として、注意危険であることを表現するために用いられる。

用法としては、

これは危険なので、絶対に行わないでください!
そんなことしちゃ、ダメ! 

のようになります。
あるいは、感動したときにあふれる気持ちを表現します。

ああ、すばらしい!

また、相手に対して猛烈に抗議する場合も使われます。

窓を閉めとけと言っただろ!

このほかに、勢いを表す意味で用いられることもあります。

さぁ、行くぞ!

こんな感じですね。

そろそろ、「おまえ、何でそんなあたりまえのことをごちゃごちゃ説明してるの?」と考えている方も多いと思いますが、もうちょっと我慢してください。

この感嘆符「!」ですが、wikipediaでの説明の通り、この記号自体がその前の文章を強調する効果があるわけです。簡単に言うと、ものすごく「勢い」がつきます。この表現を口で発音すると、おだやかに語るのではなく、怒鳴ったり叫んだりする形になるわけです。

タイトル:ご質問です!

うわぁ、なんか人ごみの中で叫んでるやつがいるなぁ… となるわけです。

たとえば命の危険が迫っているときに、

助けてください!

と叫ぶのは、ごく自然なことです。これは一大事と、手を貸す人は沢山いるでしょう。
ところがこれが、

助けてください!歯に小魚の骨がつまって気持ち悪いんです!!

だったらどうでしょう? うるせぇよ、バカ! と、普通なら思われますよね。その程度のことで大騒ぎできる元気があるなら、もうちょっと自分でがんばってみろよ、となります。

どうも、ある年代以降の人は、自分がバカげたことを大声でさけんでいるのだ、という認識ができない方が多いようなのです。

本当に困り果てて「助けてください!」というなら気持ちはわかるのですが、実際にはものすごく軽い気持ちで感嘆符「!」を使い、それがあたりまえだと思っているようです。自分が叫んでいることにすら気づいていません。簡単に言うと、言語感覚がずれているんです。

そういう人たちは、気軽につかって何が悪いの?と疑問に思うでしょうね。


考えてみてください。

あなたはデザイナーです。

あなたは印刷物のデザインを受注し、3日間ほとんど寝らずに素晴らしいデザインを行いました。良いデザインが出来たと自信もあります。

このデザインをクライアントに見せて了承を得るのですが、直接会えない事情があり郵送しました。

数日後、そのデザインが返送されてきました。そこには次のような記載がありました。

赤が強すぎる! もっと薄く!

イラッとしませんか?

こういうことを平気で書く人が、世の中にはたくさんいるんですよね…

それで、「ああ、よっぽど気に入らなかったんだろうな…」と思うのですが、後日会って話してみると「大体いいんですけど、あそこだけ気に入らなかったんですよね。ワガママ言ってすみません」とか、拍子抜けするほどやわらかい口調で話されたりすることになります。

赤が強すぎる もっと薄く

感嘆符を抜いただけです。受ける印象はどうでしょう?

理想を言えば、「赤がつよすぎるのでもう少し薄くしてください」と書いてほしいところですが、相手も忙しい身でしょうからそこまでは望みません。でも、感嘆符を省くだけでずっとアタリがやわらかくなるのは感じられるのではないでしょうか?

受注を行う仕事をしていると、明らかに相手のミスによる修正を行わなければならない時が頻繁にあると思います。その時に相手から

申し訳ありません! こちらのチェック漏れでした! 
大変お手数ですが、修正のほど、何卒よろしくお願いします!

なんてメールが来たら、どう思いますか?
「なんかやたら元気でハイテンションだけど、お前、自分が悪いってこと理解してるのか?」と思いますよね、労力を割いて修正するのは相手ではなく自分なんですから。確かに詫びてもいるし言葉遣いも丁寧ですが、うわっつらの謝罪でぜんぜん反省なんかしてないな、どうせまたやらかすぞ、こいつ… という印象を持ちかねません。

重大な失敗をした人が、ニコニコ笑いながら大声で「すいませんでした、次回から気をつけます!」と言ってきたら、そんな人は絶対に信用しないでしょう? 謝罪するときは、神妙な面持ちで詫びるのが普通です。

にもかかわらず、こういうことを書いてしまう人が、ある年代を境に多いんですよね。


さて、ではその年代はどのあたりかですが、大体昭和50年代以降生まれの方で、具体的には高校・大学の頃に携帯電話を使うことが当たり前になった世代以降です。

携帯電話の普及はそのまま、電子メールでのコミュニケーションの日常化を促しました。

友達関係を何よりも重視する若者にとって、文字だけのコミュニケーションはかなり不安があり、絵文字や顔文字を使うことがあたりまえで、それを使わないのは手抜きで失礼なことになるという、妙なマナーができあがることになりました。

「明日会おうね」では足りず、「明日会おうね!」とすることが普通になり、さらにハートやピースマークといった絵文字を補うことが常識となっていったわけです。

こうした世界で生きてきた人は、感嘆符「!」をつけることが相手に対して親密さをアピールする基準になっているようです。

ですから、この過剰な感嘆符の使い方が減っていくかというとそれはありえず、むしろこれからは常識化していくことになると思います。

実際、2000年代中盤くらいには掲示板で「!マーク、うぜー」といった書き込みが見られたのですが、最近はめっきり見なくなりました。感嘆符を多用する世代が沢山流入して、完全に市民権を得てしまっているのだと思います。

言葉は生き物なので、時代とともに移り変わっていきます。感嘆符「!」に心を乱される古い世代は、早く朽ち果てるべきなのかもしれません。

ただまぁ、とりあえず現段階では、

タイトル:ご質問です!

なんてわめいてるうちは、もうちょっと自分でがんばる余地があるほど元気なので、助ける必要はないなと思うわけです。

本人は軽い気持ちで使っているのだと思います。前述したように好意的なアピールでもあるでしょう。「ねぇねぇ、ちょっと教えてよ」と友達に尋ねるくらいのつもりで、全く関係ないアカの他人に声をかけているんです。普通、そんな態度で知らない人間にものを尋ねられたら相手にしませんよね。

ですから、本当に困り果てて藁にもすがりたいなら、もうちょっと自分を弱々しく見せる努力をしましょう。大した風邪でもないけど、学校を休みたいからとてもつらいフリをしたことありませんか? あの要領です。

別の観点になりますが、元プロテニスプレイヤーに、松岡修造という方がいます。何を話すにも熱意を持って話すので、聞いているほうは若干疲れてしまいます。言ってみるなら、全ての言葉の語尾に「!」がある状態なんですよね。そういう文章を見せられると普通の人は疲れます。親しい仲ならわかりますが、仕事上の付き合いしかない相手に感嘆符を使いまくられるとどうでしょうね?

感嘆符「!」はとても強い記号で、強力な刃物のような存在です。ですからむやみに振り回すと周りの人を傷つけることを理解しましょう。



ちなみに、とある機関の調査で、テスト用紙の採点のマーカーを赤色から紫色に変えたところ、それを受け取る小学生の心理的負担が劇的に改善されたそうです。赤色というのは攻撃的な色で、この赤色で「0点」とか書かれると、人間はものすごくストレスを感じるようです。

印刷業界では「修正指示は赤色のマーカーで」というのが常識になっています。ですがこれは人間的にやさしくないので、紫色のマーカーに変えるべきです。

赤が強すぎる もっと薄く

ではなく、

赤が強すぎる もっと薄く

と書くようにすべきでしょう。そうすると、もっとみんなが幸せに笑ってすごせるようになるかもしれません。紫は輝度が低いので普通の文字に埋もれてしまいがちですから、必ず蛍光紫にしてください。マーカーなんて安いですから企業であれば経費で購入し、クライアントにそのマーカーを渡して指示を書いてもらうようにすればよいのではないでしょうか?

感嘆符「!」についても同様にいえることですが、あなたが独り言を言っているのでなければ、その言葉の向こうには必ず人がいます。

相手の立場になって言葉を発することが大切だと思うのです。